百年物語 −BDの歴史−

ベクトン・ディッキンソンは1897年に創業されて以来100年以上の間、医療現場におけるヘルスケアリーダーとして常に人々の健康を支えてきました。現在では世界50カ国に200を超す拠点や施設を持ち、総社員数は2万5000名を数えます。

はじまり

早朝のテキサス州テキサルカナ駅。 その食堂に朝食を待ちながらコーヒーを飲む30代前半のフェアレイ・ディッキンソンの姿があった。彼は書簡紙や文具を販売する会社のセールスマンとして、見本の入った重い鞄を携えてテキサス州を訪れていた。彼の席に南部アメリカの朝の陽射しが強烈に射し込んできた。まぶしそうに窓を見上げる彼の目に、窓辺に近づきシェードを直しながら微笑みかける一人の青年の姿が映った。その青年の思いやりに心を打たれたディッキンソンは、彼を自分の席に誘い共に朝食をとる。
マクスウェル・ベクトンと名乗った20代後半のその青年は、ボストンにある小さな医療品会社を共同経営していた。意気投合した二人はテキサスからサンフランシスコまでセールスの旅を共にする。その短い旅の中で、将来性のある医療品の分野で二人が力を合わせれば、すばらしい事業展開ができることを確信した。数ヶ月後の1897年9月、ベクトンはディッキンソンを突然訪問する。会社の権利をパートナーに譲り渡した彼は、ディッキンソンとの起業の意志を伝えにやって来たのだった。固い握手を交わした二人はそれぞれが4,000ドルを出資しニューヨークに新会社を設立した。ベクトン・ディッキンソン・アンド・カンパニーの歴史がここに始まった。

1897

初注文は、注射器1本 2.5ドルだった
創立当初の当社の製品カタログ。当時の帳簿を見ると、1897年10月にベクトンがとってきた注文第1号として「出荷先:S.D.ギルマン、住所:ワシントンDC、ルアーガラス製Hyp.注射器:1本、代価:2.5ドル」と記されている。

1903

業績は驚異的にのびていた
設立当時のオフィスやニュージャージー州プレーンフィールドの工場(写真)では追い付かない程に業績は伸びていた。この年、ニューヨーク市のデュアン通りとハドソン通りの角ある6階建のビルにオフィスを移すが、そこもすぐに手狭となるほどだった。

1906

工場用地を購入。百年の礎となる
ニユージャージー州イースト・ラザフォードに工場用地を入手。第3のパートナーとして注射針製造業者アントン・モリナリを迎える。モリナリの小さな息子・ヘンリーは家業を手伝うことを日課としていた。注射針となる穴開きワイヤーを切るという作業が、彼の毎日の仕事だった。遊び盛りで野球が大好きな少年が、できるだけ早く手伝いをすませ遊びに行きたいと考えるのは無理もないことである。そんな彼が考案したのが、手作りの自動ワイヤーカッターだった。それを見たディッキンソンはヘンリーに入社を勧め、彼は入社後、当社の最初の大量生産用機械を製作する。その後ヘンリー・モリナリは35年間にわたり、当社の主要な特殊機械の設計に携わった。写真は当時ラザフォードにあった工場(上)とアントン・モリナリの工場(下)。

1918

ACEブランド包帯、誕生の秘話
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1914年、第1次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパ製品の輸入に頼っていた当社は、有力な商品であるドイツ・ヴェンダース社製の包帯を輪入できなくなってしまった。必要は発明の母という。1913年に買収した SSI社の社長だったシユワイデッキーはその開発力を生かし、ドイツ製包帯に勝るとも劣らない独自の包帯を作り上げた。その包帯は耐久力があり、機能的で風を通し、さらに伸縮性があり、その上洗濯すれば何回でも使用可能という画期的なものであった。時に1918年、当時では珍しかった新商品名の公募というイベントが行われ、ACE(All Cotton Elastic)が採用された。その品質の高さから今日まで世界中で多くの支持を得ている ACEブランドの包帯は、こうして生まれたのだった。

1949

真空採血管の誕生
どのようなシリンジにも使えるパーツを備えた「マルチフィット注射器」を開発したジョセフ・クライナーが当社に入社したとき、彼にはもう1つの新しいコンセプト、つまり採血管の中が真空で、針を刺すだけで管内に血液を採取できる「真空採血管」のアイディアをもっていました。1949年、この製品は特許を取得し、BD バキュテイナ®採血管システムが誕生しました。

1952

滅菌済み使い捨て医療器具の誕生。 滅菌効果の実験はホテルの中央集塵装置だった
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1950年代初頭、当社とボルチモア・バイオロジカル・ラボラトリ社(BBL)は、アメリカ赤十字社から滅菌済使い捨て献血用採血セットの開発を要請されたが、当初、フェアレイ・ディッキンソンは医療器具の滅菌は病院や医師の責任と考え、滅菌済み医療器具の製造には反対だった。そのため、BBL社のカースキー社長と当社研究部門のクライナー部長は独自に滅菌効果の実験を行った。ボルチモアにあるホテル・ベルベデレの中央集塵装置の中に100個の採血セットの入った箱を放置しておいた。数日後、埃だらけのパッケージを一個づつテストし、全てが滅菌状態を保っていることを確認した。実験成功のデータを携え、ディッキンソンを説得した二人は、1952年に赤十字社と契約し、朝鮮戦争の野戦病院用に25万セットを送り出した。これを契機として「滅菌済使い捨て」は医療機器の標準となっていった。

1954

初の大規模ポリオワクチンの接種
50年ほど前、米国では小児まひとして知られるポリオ罹患により年間約5万人もの子供が命を落としていた。その対策のため1954年4月28日、医療史上最大の抗ポリオ実験が開始された。ジョナス・ソーク博士が開発したワクチンを当社のHYPAK®注射器と針により、短期問に全米100万人以上の児童に投与するという壮大な試みであった。当社は最優先事業として取り組み、製品を原価で供給した。この試みは長年続いたポリオの流行に終止符を打ち、多くの子供たちの命が救われた。この写真の少女は、この時の感動を胸にその後当社を訪れ、現在は秘書として当社に勤務している。

1965

実験用ダミー制作に着手
当社は1965年、サターンロケットの発射装置に使う振動モニターシステムなどをNASAに納めていたエンデブコ社を買収した。時に米国ではラルフ・ネーダーを先頭に、自動車の安全性を追求しようという市民活動が盛んとなっていた。このような状況の下、当社は自動車の衝突実験などに使われる実験用ダミーを製造した。ダミーとは人間と同じ構造を持ち、骨も皮膚も人間と同様の傷つき方をする人形である。このダミーは1体5,,000ドル以上という金額であったが、1970年代には年間に数百体を製造し、自動車の安全性確保の基礎を作った。その後、自動車の標準装備となっているアンチロック・ブレーキシステムにつける振動加速度計を開発するに至った。

1968

ベトナム戦争で多くの命を救ったハイムリッヒのバルブ
のどの詰まりに対する救急処置法にその名称が付けられているぼど考案者として有名なヘンリ−・ハイムリッヒ博士は、胸の内部の傷から出る血液を抜く、野戦病院用バルブを当社にもたらした。今までの複雑な装置に比べ、使い捨て用の軽いフラッター・バルブをデザインしたコンパクトなドレナージ・バルブの使用により、前線で負傷した兵士の容体を安定させたまま長時間輸送が可能となり、後方に送って十分な手当を受けさせることができるようになった。このバルブによりべトナム戦争で何人の命が救われたか知れない。当社はこの時期、2万本以上のバルブを米国陸海軍医療チームから受注した。

1973

世界初の自動細胞解析分離装置
1970年代初頭、スタンフォード大学病院遺伝学教授レオナルド・ヘルツェンバーグ(写真右)は、人間の免疫システムを構成する細胞分析のための高度な技術を駆使した機械の製作に日夜没頭していた。しかし、科学者ヘルツェンバーグの夢を商品化し、医療のために役立てようという企業はなく、その偉大な発明は失意と共に大学病院の地下実験室で眠っていた。そして、当社のバーニー・シューア(写真左)と出会うことによりその機械は1973年、世界最初の高度な自動細胞解析分離装置・FACS(R)として社会の日の目を見ることになった。その後FACS(R)は、自尊心のある生物学者なら持たない者はいないといわれるほど、飛躍的な普及を示した。

そして、今・・・

1897年、医療機器輸入会社としてニューヨークに設立されたベクトン・ディッキンソン・アンド・カンパニーは、その後世界的な発展を示し、今では世界中のヘルスケア専門家や医療研究所、さらには一般の人々にまで幅広く利用される医療機器・医療装置、および診療システムを製造・販売する医療技術の会社となりました。